Heaven nor Hell


 どうしてこうなってしまったのだろう。
 アメリカは自分自身に誇りをもっている。自分の歴史に誇りを持っている。ひとつの国として成り立つようになって、いや、それ以前の植民地のような状態の時から、アメリカは自分自身を尊敬し誇ることができた。 アメリカが自分の歴史で後悔しているとしたら、それはただ一つ、イギリスなくしてはアメリカという存在が生まれなかったということだけだ。
 はじめアメリカにとってイギリスとは自分自身であった。ニューイングランド、ニューハンプシャー、ジョージア。どれもイギリスに由来する地名だ。アメリカにとってイギリスとは故郷であり、遠く離れた地においてのすがるべきよすがだった。
 まだ幼かった頃はイギリスとのつながりが何より大切だった。だが、それももう過去のことだ。今ではアメリカは押しも押されもせぬ大国として世界の中心にいる。イギリスの庇護は二百年も前に振り切った。フランスも。だけど、イギリスは未だアメリカに執着を向け続けている。形を変えながら。名前を変えながら。
「おい、アメリカ!」
 世界会議の直後、席を立ったところで呼ぶ声がした。咄嗟に聞こえなかった振りをして素知らぬ顔でドアを開ければ、すぐ後ろに続いていた日本がそっと声を掛けてくる。
「アメリカさん。……イギリスさんが」
 日本はそれ以上は云わなかった。云われるまでもなく解っている、用があるとでも云いたいのだろう。だが実際にイギリスがそうそう自分に対して用事があるとはアメリカは思っていない。
「そうかい?聞こえなかったよ」
 明るく日本に笑って見せておもむろに振り返る。開けかけたドアの前に立ったまま。
 さあ用があるなら話してみろ。今、この場で。
「呼んだかい、イギリス」
「あ……」
 途端に戸惑ったような表情を浮かべる男に、内心嫌悪の念を抱きながらアメリカは何でもないように反対側のドアに凭れかかる。二枚扉の片方を手で押さえ、もう片方を背にした状態で立っているアメリカは意図的に誰も部屋から出そうとはしていない。呼び止められたからちょっと立ち止まった、そんなポーズをとるアメリカを押しのけてまで部屋を出ようとする者がいないせいで、今や部屋にいる国々の大多数がイギリスを注視している。
「なんだい?」
「……いや、何でもない」
 つとめて笑顔になろうとするイギリスに一瞬苛立ちが込み上げる。
「51番目の州になりたくなったらいつでも呼んでくれよ!」
 ウィンクまでつけて笑ってやって、すかさず踵を返して部屋から出る。後ろからこの馬鹿ぁ!という声だけがアメリカを追ったが、既に当人は冷え冷えとした笑みを浮かべて歩き去っている。
 いつもの遣り取りだ、いつもの。誰もそれを不審に思ったりはしないし、アメリカを諌めようとする者もいない。ただ、アメリカがそれを全て計算に入れて行動しているというだけの、それだけのこと。
「本日はお泊りになられますか、あるいはお戻りに?」
 廊下を歩いていくアメリカにすっと部下が合流する。今日の会議が終わったら帰国するスケジュールになっていることはアメリカもその部下も先刻承知だが、予定が未定になるのはよくあることだ。日帰りの日程を一泊に変更する程度のことは普段からやっているし、そのくらいなら上司から許されることが多いので、部下もそれを解っていて確認してくる。
「うーん、帰国かな。ゲームの続きが気になるからね!」
 正面を見たままいつもの調子で返してやれば、部下は視界の端ですぐに頷いた。
「かしこまりました。手配いたしますので、一時間半後にロビーでお待ち下さい」
「一時間にしてくれないかい?」
「そのようにします」
 自分のために与えられた部屋に入り、後ろ手に扉を閉め、鍵をかける。そのまま目を閉じて深呼吸をしたのは、あまりにも苛立っていたせいだ。これがイギリスのものではなく自分の部屋だったなら、今頃陶器の一つや二つは割れているはずだ。
 時間は既に夕刻に近づき、明かりを点けていない室内は薄暗かったが、それでも照明のスイッチに触れる気は起きなかった。電気がついているのを見てイギリスが訪ねてきたらと思うと、それだけで不愉快になる。イギリスをおそれて明かりも点けない自分に尚更苛立ちが募ったが、こればかりはイギリスのせいとは云い切れず、アメリカはそれ以上イギリスのことを考えることはやめて無言で出立の支度を始めた。
 荷物は大して多くない。今回の世界会議がイギリスで開催されると決まった時点で、必要最低限のものだけを用意したのはアメリカ本人だ。五分とかからずに支度を終え、アメリカは使いもしなかったベッドの上に寝転んで天井を見上げた。
 アメリカは基本的にはイギリスには滞在しない。イギリスの地で夜を明かすことがあるのは、決まってイギリスに予定がある日だけだからだ。今日は特に予定は入っていなかったようで、声を掛けてきたのがそれを証明している。実際のところアメリカはつい先日まで非常に忙しい状態だったので、今日もすぐに飛行機に乗って自国へ戻りたい気分ではなかった。けれど、イギリスが声を掛けてきたのなら別だ。疲れてはいるが、帰ってからゆっくり休暇を取ればいい。
 そう考えていた矢先にドアがノックされた。ごく僅かな、遠慮がちなノック。こんなうかがい方をするのは、日本かイギリスくらいしか知らない。そしてここはイギリスだ。
 咄嗟にすぐ出立しなかったことを悔やんだが遅い。返答を躊躇う間にドアが再びノックされた。今度は、さきほどよりも少し強めに。
「……アメリカ?いないのか?」
 前回はシャワーを使っていた。その前は音楽を聴いていた。さらにその前は電話をしていて、イギリスに気付かなかったことになっている。流石に反応がないようでは不審に思われかねず、アメリカはちっと小さく舌打ちをしてベッドから起き上がった。
「ああ、イギリスかい?ちょっと待ってくれよ」
 云いながら歩いていき、ドアを開ける。半開きのドアの向こうは明るく、暗い室内を覗き込んでイギリスが所在なさげに立ちつくしている。
「なにか用かい?」
 黙ったままのイギリスに訊いてやれば、彼はおずおずと手に持ったティーセットを掲げた。
「いや、紅茶でも飲むかと思ってな」
「君のとこにはコーヒーっていう選択肢はないのかい!」
「紅茶の方が美味いに決まってるだろ!」
 むきになるイギリスに仕方ないと云わんばかりに肩をそびやかして見せ、部屋に入るよう促す。
 自国の建物だというのにまるで初めて入るような素振りを見せるのは相変わらずの様子で、イギリスは多少は控えめに、だが視線はきょろきょろと部屋を見回している。
「お前今夜は泊っていくのか?」
 テーブルにティーセットを並べながらイギリスが訊く。構わずソファに座ってそれを眺めながら、当然のことだと云わんばかりにアメリカは笑顔を浮かべた。
「今夜かい?帰るよ」
「え……」
「昨日までずっと仕事が忙しくて全然休めなかったから、ものすごーく疲れてるんだぞ!」
 軽い調子で歌うように云えば、この嫌悪感は伝わらないはずだ。アメリカはさり気なくベッドサイドの時計を確認する。部下が迎えに来るまでまだあと二十分近くはある。
「だったら泊っていけばいいじゃねえかよ」
 ぼそぼそとイギリスが云う。まだ諦めていないらしいイギリスに、さらに駄目出しをしてやることにする。
「イギリスの料理はほんっとに不味いからね、帰ってアイスを食べながら日本のくれたゲームをするのが一番さ!」
 これには流石のイギリスも多少なりとも傷ついたようだった。きゅっと唇を噛みしめて、俯き加減になりながらカップに紅茶を注いでいる。アメリカの前に置いたカップが小さく音を立てた。
 イギリスが自分の分の紅茶を注ぎ終わるのを待たずにカップを傾ければ、ふわりと紅茶の香りが広がった。これだけは文句なしに美味しいはずの紅茶も、不快な相手を前にすれば随分と味気なく感じる。
 何だって自分はイギリスと向かい合って紅茶なんか飲んでいるのだろう。イギリスがこうやって紅茶を持参して手ずからもてなそうとする相手はきっとアメリカだけだ。他の国、例えば日本やフランスあたりも今夜はイギリスで一泊するようなことを云っていたが、彼らではなくわざわざ自分のところを選んでやってくるイギリスの執着が不愉快でたまらなかった。
 早く自国に戻ってゲームでもやりながらごろごろしたい。イギリスと過ごさなければならない一分一秒が永遠のように感じられて、アメリカはただひたすら琥珀色の水面を眺め続けた。諦めきれない様子でぼそぼそと話しかけてくるイギリスのことをアメリカは最早無視している。
「……アメリカ、おいアメリカ!」
「ん?」
 億劫な気持ちで顔を上げる。先ほどからイギリスが何か話しかけてきていたのだが、その内容は全く耳に入ってきていなかった。ちびちびと飲み続けていたために手に持ったままのカップの中身は既に空になっている。
「紅茶のお代りはいるかって訊いたんだよ」
「ああ、紅茶か……いや、もういいよ」
 返しながら再び時計を見遣れば、そろそろ約束の時間の十分前になろうとしていた。今ならこの場を離れてもそう違和感はないだろう。
「何だよ、そんなに疲れてるのか」
「ハンバーガーを食べればすぐによくなるさ!」
 イギリスから離れられることが嬉しくて笑顔になる。イギリスに心配そうな顔をされるのが嫌で嫌で堪らないが、それもここで終わりだ。帰ろう。すぐ帰ろう。
「じゃ!」
「あ、ああ」
 軽快に立ち上がり、荷物を抱え上げる。そのまま後ろ手に手を振って見せながらアメリカは部屋を出た。アメリカは決して振り返らず、あとにはイギリスが一人残されている。冷めきった紅茶と共に。

つづく


(08.15.09)


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