コーポWのキッチン事情 |
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このアパートの火災探知機壊れてんじゃねえの? それが入居一ヶ月後の俺の感想だ。 大学の近くのおんぼろアパートは木造築三十年以上の癖に、キャンパスから徒歩十分というあり得ない立地条件のお陰で毎年争奪戦が行われるほどの大人気を博している。特に貧乏学生どもは死ぬなら死んだでいいんじゃないの、という刹那的な考え方の奴が多いのか、それとも勉強以外のことが考えられなくなっているのか。とにかくこのアパートの人気は半端じゃない。ボロいだけあって家賃もたかが知れているし。まあ俺もここに住んでいる以上大きな事は云えないけどね。 で、俺がどうやってこのアパートに入居したかと云うと、滅茶苦茶運が良かったからでは残念ながらない。単に六回生の先輩が今年ようやく卒業できることになったのだが、その先輩の部屋を丸ごと引き継ぐ形で契約も引き継いだというだけのことだ。ずるいと云われても、契約者の名義がフランスに変更になっただけだから文句は云わせない。 ここは確かに古すぎるほどに古い建物だが、これで通学時間は二時間近くは短縮されたし、共用とは云えキッチンもあるのだから俺はそこそこ満足している。料理は好きだし得意だけど、キッチンがついている部屋はちょっと割高だから困っていたのだ。外食するより自炊した方が安いけど、キッチン付きの部屋は家賃が高め。そんな俺の悩みをふっ飛ばしてくれたのがこのアパートなので、ちょっとくらいボロくたって感謝しているよほんと。 ……この火災警報さえなければ、の話だけどね! ジリジリジリジリ、途切れることなく鳴り響く警報のベルにうんざりしながら俺はデスクから立ち上がった。また火災探知機が何か探知してくれやがったようだ。警報が窓も割れよとばかりに鳴り響いているにも拘らず、アパートからぞろぞろと出ていく人の行列はのんびりとしたものだ。というよりはだらだらしている。 課題に取り掛かっていたところだが仕方がないので、俺も彼らに続いて廊下に出る。鍵をしっかりと掛けて、あとはほぼ手ぶらのままアパート前の小さな庭にみんなで集まった。携帯電話と財布以外は全部部屋に残したままだ。 誰も彼もが軽装のままで、貴重品などは特に持っていない。中庭で手持ち無沙汰にぼうっとしていると、視線は自然とアパートに集まるようで、その場にいた住人一同で煤けた建物を眺める。考えてみればなかなかシュールな光景だ。ぼんやりした表情の学生たちが、警報鳴り響く廃墟じみたアパートを一斉に眺めているのだから。 だが、問題のボロ屋は相変わらずボロいだけで、どこからも火の手どころか煙の一条すら上がっていない。 火災警報は依然鳴り続けているけど、これを本気にしている奴なんか居るものか。こんなのはこのアパートの恒例行事なのだ。毎週一回は警報が鳴り響いて、みんなで仲良くお外に避難する羽目になる。原因は笑えることに、ほとんどが電子レンジで何かを焦がしてしまったとかフライパンに火がついたとかそういうものばかりだと云う。面倒だしわざわざ外まで避難してきた後は気力がないから確認したことはないけどね。 その日も俺達は木偶の坊みたいに庭先に突っ立ったまま、火災が実際に発生していないかどうか、原因確認が終わるのを待った。こんなに度々警報が鳴るような事態になるんじゃ大家さんも大変だな。ま、毎度毎度キッチンが原因ってことは、どっかの料理音痴が飽きもせずにやらかしてるってことなんだろうけどな。 俺はレポート用に図書館で借りてきた参考文献の一冊くらい持って出れば良かったかな、と考えて伸びをした。次回警報が鳴ったらそうしようと決めて、待ち続けるのも面倒になったのでそのまま踵を返して散歩に出かけることにする。ほら、気分転換だ気分転換。せっかく外に出たんだし。というか部屋に残してきた課題のことを考えたくない。 適当に散歩したついでに大学の図書館に寄ってから戻る。ちょっと歩きまわるつもりが思いのほか時間を食ってしまって、俺はやや後悔しながらアパートへの道を引き返した。ちなみに俺の住んでいるアパートには正面玄関以外にも勝手口がついている。図書館からだとそっちの方が近いので、迷わずそちらに向かうと、勝手口の脇の流し場に不審な人影を発見した。 「……?」 時間は夕暮れを回り、周囲は薄暗くなっている。そこでごそごそ動いている人影が気になって俺はそちらに近寄ってみることにした。基本的にこのアパートに入居しているのは男ばかりなので、まさか強盗ではないだろうが、万が一ということもある。 だが、近づいてみて俺は拍子抜けした。おそらく後輩だろうか、やけに幼い顔だちをした男が半泣きになりながら必死でフライパンを洗っているのだった。その手の中にある真っ黒に焦げたフライパンを見て俺は納得した。あーこいつが火災警報の犯人ね。 フライパンの見事な焦げっぷりを見ているとそれだけでこいつがどれほど料理音痴なのかが伝わってくるようだ。何しろ満遍なく黒焦げだ。ていうかそれまだ使う気なのか。 あの火災警報には何度も迷惑していることだし、よほど何か云ってやろうかと思ったが、しかしこれまでに伝え聞いてきた下らない原因の数々を思い返してやっぱりやめてやることにした。あの様子じゃ散々周りに云われたんだろうし、それでこんなところでこっそり黒焦げのフライパンなんかを洗っているのだろうから。 ま、勝手口は俺みたいな無精者がしょっちゅう使うから、ここで洗っても全然隠れてないけどね! それで俺はその場で立ち止まると、彼に気付かれないうちに方向転換して改めて正面入り口からアパートに戻ることにした。ほら、俺は優しいからね。 これが、俺が初めてイギリスの存在を知った経緯だ。あいつの名は後日改めて俺の中に刻まれた。天才的な料理音痴として。 その日以降も火災探知機はひっきりなしに鳴った。原因は九割九分の確率で懲りないイギリスのせいで、外の天気が雨だろうが俺が入浴中だろうがおかまいなしだった。 どうせ鳴らすんだったら少しは気を遣って欲しいものだ。お陰でこの間なんか俺は全身ずぶ濡れで腰にタオルを巻いた状態で庭に立つ羽目になった。これって国と法律によっては例え火災警報が鳴ったせいだとしても逮捕されてもおかしくないんだからね。ほんとそこのところわかって! そういう訳で、イギリスの方は俺のことなんか知らないだろうけど、俺は警報が鳴る度にイギリスに怒ったり同情したり、まあつまり結構親近感が湧いていた。とってる授業がひとつも被ってないから相変わらず話すらしたことないけど。 そんな俺が初めてキッチンでイギリスに遭遇したのはついこの間の話だ。それも、俺が居合わせたお陰であいつの危機を救ってやったという物凄いタイミングで。 俺はその日、ちょっと小腹が減ったのでキッチンで何かつくろうと思っていた。敢えて云うが、俺の料理はほんとうに美味い。あんまり美味いので、下手に誰かに食べさせてやったりするとたかられる危険性が物凄く高いという諸刃の剣だ。そんな真似をしたら貧乏学生の俺は三日で破産してしまうので、俺は大概人の居ない時間を見計らってキッチンを使う。 本音を云うともう一時間は時間をずらしたいところだったけれども、どうしても空腹に勝てそうになかった俺はリスクをのんでキッチンへ向かった。オムレツが食べたい。卵がふわふわしたオムレツだ。ほんの十分でいい、さっと作ってさっと部屋へ引っ込もう。そう決心した俺は、だがキッチンにつくなり目を剥いた。 「ちょっ……お前なにやっちゃってんの?!」 「へ?」 こちらを振り向いて目を丸くしたのは、あいつだ。天才料理音痴のイギリス。 その瞬間俺の取る行動は決まった。まっすぐ電子レンジに直行し、取り消しボタンを連打。次に流しの近くにある窓を開けて、換気扇の紐を引いてフルで換気を行う。布巾を濡らしてかたく絞り、レンジを開けて中身を布巾で掴んで出す。途端に黒っぽい煙がわっと出てきたが、それは一旦無視して急いで窓の近くまで謎の物体を持って走った。この間十秒程度。そのまま天井に備え付けられた火災探知機を見つめ、しばらく戦々恐々と待つ。十秒経っても二十秒経っても反応はなかった。俺はやった、やりとげたよお兄さんは。迷惑な警報を未然に防ぐことができました。いやーこれは今世紀最大の偉業と云ってもおかしくないね。 俺が達成感に胸を震わせているのと時を同じくして、横ではイギリスが拳を震わせていた。 「……おい」 「ん、なん……うわっ危ないなあもう!」 満面の笑顔で振り返った瞬間俺の頬を拳が掠める……ってここはどこの戦場だよ! アパートかと思ってたけどリングだったのか。残念ながら開始のゴングは俺には聴こえなかったよ。 「なんだよお前! 勝手に手え出してるんじゃねえよ!」 「おいおいせっかく助けてやったのにそれはないでしょ」 イギリスは怒りに頬を紅潮させている。童顔だなあとは思っていたけど怒るとますます幼い。こいつほんとに同じ大学に在籍してるんだろうか。飛び級とかじゃないよな。年齢低いんだったらもっと身の程をわきまえて自炊とか考えないもんだしな。 こいつのあまりの理不尽な発言にげんなりしていると、イギリスがファイティングポーズのまま驚いたようにこちらを見つめてきた。 「え、なにが」 いや驚いたのはこっちだから。ていうかわかってなかったのか。まあわかってたら警報は鳴らないか。 「……これちょっと見てみて。焦げてるでしょ。むしろ原型留めてないよね」 云われてイギリスはようやく俺の手の中にあるボウルを覗き込んだ。黒焦げになっている何かぐちゃぐちゃした物体がボウルにこびりついている。うん、これは洗いたくないな。そのままゴミ箱にポイしてしまいたくなる出来だ。 「確かに……少し焦げてるけど……」 少しってレベルじゃないよこれ。料理音痴も天才の域に達すると事実が歪曲して目に映るのかと、俺はいっそ感動した。こいつは生きている限りは二度とキッチンに立つべきじゃないね。彼に必要なのは料理上手なお嫁さんか彼女だ。断言できるよお兄さんは。 一体なにを作ろうとしていたのかが気になり、目を凝らしてじっと見てみると、どうやらボウルの中身はマカロニか何かだったようだ。おいこれインスタントだよな……。インスタント食品って普通は調理方法が箱とかパッケージとかに記載されていて、それに従って調理すれば手軽に美味しく食べられるっていうのが売りの食品だった気がするんだけど、いつの間にそこまで難易度が上がっちゃったんだろうな。 「あーもー説明くらい読めよ……」 もうげんなりどころじゃなくなって俺は項垂れた。イギリスもまたやらかしかけたことにやっと気付いたのか、途端に先程までの烈火のような勢いをなくしてしゅんと俯いた。と思ったら今度は拗ね始めたらしい。むしり取るようにして身につけていたエプロンを外した。何故レンジでチンするだけなのにエプロンをつけていたのかは謎だ。 「どっどうせ俺は料理が下手だよ!」 よほど恥ずかしかったのか、ちょっと涙ぐんでいる。うん、気持ちはわからないこともないけど、これ料理って呼ぶほどのレベルじゃないから。思わず思考を口に出しそうになって俺はぎょっとしてイギリスを見た。うわ、よく見たらこいつ反対の手には包丁握ってるじゃねえか! 危険すぎる! 「これは……その、ボウルにこびりついたのをこそげ落とすためにだな……」 つい包丁を凝視していると、俺の視線に気づいたイギリスが包丁の柄を両手で持ってこねくり回しながらぼそぼそと説明し始めた。そうだね、もう全部おかしいってことは解ったから、ね? むしろこれ以上知ったらお兄さんの料理に対する観念が破壊されそうだよ。いいから包丁を置こう。刃物で遊んじゃいけないって子供の頃に教わったでしょ。 今までこいつがどうしてきたのか、考えるだけで眩暈がしてくる。 「……よし」 あまりのどうしようもなさに俺はため息をひとつついて決意した。そう云えば俺はオムレツが食べたくてキッチンに来たのだった。 「お兄さんが御馳走してあげよう」 多分それが世界平和への第一歩だ。 (09.30.09) back |