しあわせの手


 ナナリーが悲しい顔をした。
 盲目のまま過ごした年月が既に人生の半分以上を占めている彼女は、自分の顔に浮かぶ表情の語るものをあまり自覚していない。周囲のどんな些細な音や気配も敏感に感じ取れてはいても、しかし、人の見せる表情というものに対する認知はあまりないからだ。彼女にとって表情とは単純に喜怒哀楽に分類できるものであって、それ以上の細かな機微というものは、理屈の上では理解してはいても決して実感を伴うものではなかった。
 ルルーシュも周りの友人たちも、ナナリーが求めるままその表情に触れさせることを決して躊躇わなかった。だが彼女の指にそれらの顔を差し出すまでには、どんな苦痛も悲しみも大概拭われていた。だから彼女は実際のところ、人の笑顔か、あるいは誤魔化しきれなかった涙にしか触れたことがない。
 だからナナリーが悲しい顔をした時、彼女は自分自身の表情がどんなものなのかを完全には理解していなかった。彼女はつとめて笑顔を浮かべていた、だがその内心の悲しみは兄であるルルーシュには明らかだった。悲しい笑顔はルルーシュに刻まれた痛手よりも深い苦痛を生んだ。
 特区日本。その傲慢な考え方が何を破壊するか、ユーフェミアは考えたことがあっただろうか。
 彼女は既に枢木スザクを持っていってしまっていた。彼がただの友人だったならどんなに良かっただろう。自分たちに関わらない人間だったなら。けれどスザクはルルーシュにとってもナナリーにとっても大切な人間だった。七年前からの古い友人である以上に、スザクは彼らのよき理解者だったし、何よりもナナリーにとって信頼するに足る存在だった。彼は今やユーフェミアの騎士で、もはや自分たちと穏やかな日常を過ごすことはない。
 ユーフェミアは真実苦痛を味わったことがない。それはお互いに空白の歳月を過ごしてきた今でも断言できた。彼女は常に姉を始めとする人々に守られて幸福だったのだろう、裏切りも打算も知らない彼女には、いつだって全てを望む権利が与えられていた。だから彼女は夢を見た。
 特区日本がルルーシュとナナリーから何を奪うか、彼女は考えてもみなかったのだろう。だからこんな夢物語を現実に持ち込める。二人の友人を奪い、居場所を奪い、何もかもを手に入れてユーフェミアは慈愛の微笑みを見せる。だって彼女は姫君だった、どうしようもないほどに。
「……大丈夫だ、ナナリー」
 微笑みを浮かべ、ルルーシュは妹の手をそっと自分の顔に触れさせた。彼の表情は愛情に溢れてどこまでも優しい。
「お兄さま……」
 確かな笑みの形に触れてナナリーの表情が和らぐ。
 ルルーシュに残された大切な人間は、もはやナナリーだけだ。友人も家族も祖国までもが、どうせとっくに失われている。愛した人々でさえも彼らからこれ以上奪おうとするから、ルルーシュはもう希望すら持つことが出来ない。
「心配はしなくてもいい、大丈夫だ。……だから、」
 ナナリーを悲しませる世界なんて、いらない。


(06.01.07)


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