君の願いをいてあげる 2


 人間の根本を形成する感情というものは、国や言語が違ったところで通じなくなったりなどはしない。表情や目つき、身ぶりなどは人の感情を雄弁に物語る。それは異人種間でも結局はお互いに同じ人間であることを再確認させるけれども。
 元名誉騎士侯の枢木少佐はブリタニア軍の中でも多少複雑な位置に立っている。彼はもともとはナンバーズの出でありながら騎士の位にまで昇りつめたが、ユーフェミア皇女殿下が殺害されて以降は名誉騎士侯の階級を失い、しかしシュナイゼル殿下直轄の特別派遣嚮導技術部で相変わらず第七世代ナイトメアフレームランスロットのデヴァイサーをつとめている。一時は高みへと昇りつめた人間が後ろ楯を失った途端にどこまでも転落してゆく、そんな貴族や皇族を見てきたブリタニア軍人たちからすれば、枢木少佐がただ分不相応に得た分だけをきっちり失って平然としている様子は奇異にしか見えない。枢木少佐はつまり、幾ら彼がブリタニアという国家や軍に溶け込むために努力を重ねたとしても、そうすればするほど彼自身が異分子であることを否応無しに周囲に突きつけ続けている。
 軍人といえども噂話を好む人間は少なくはない。むしろ弱肉強食を信奉するブリタニア帝国において、情報収集の一環たる噂話は、奨励こそされないものの非難されるべき行動ではない。枢木少佐というひとつのイレギュラーはそうした噂話には格好の火種で、この日も廊下で彼と擦れ違った陸軍上等兵は仲間たちとの会話の前振りとしてまず枢木少佐の名前を出した。
「さっき枢木スザクと擦れ違ったよ」
 へえ。何か面白いことでもあったか。
 同じブリタニア人同士だと、噂話ひとつとっても国を同じくする仲間ではあってもそれぞれ派閥や裏での結びつきをおそれる必要がある。その点はイレブンなら心配がいらないので、だから枢木少佐の話題には皆食い付きがいい。
「いや、第二小隊の伍長殿と上等兵が何人かで噂話をしていたようなんだが、それが例の話でね」
 例の。ここ最近でその冠詞をつけられる話題というと、第2皇子シュナイゼル殿下とルルーシュ騎士侯を指したものになる。
 騎士侯殿が囲われているという話か。あれは結局ただの流言だったのだろう。だが殿下も深夜に居室を訪れているとか、いないとか。途端身を乗り出して質問を始めた聴衆の反応に気をよくして、上等兵は何度か含みを持たせていちいち頷いた。
「そう、その件について詳しい話を知っているようだったから立ち聞きしてきたんだ。そうしたら実際に殿下の寝所あたりを警備していた者が見たんだとか。日付も変わるという頃に殿下が騎士侯殿の居室を訪問するのを」
 ざわめきは最高潮に達した。ただでさえ広くはない空間を何人もの男たちが占めているため、兵卒宿舎の一室はひどく狭く感じられる。流石に慣れたとはいえ、たちこめる熱気のようなものはあっと云う間に室内を満たしてゆく。
「枢木少佐もどうやらそこに居合わせたらしくてな、しかし少佐の浮かべる表情が妙なんだよ。仮にも皇子殿下の話題が出されているというのに、笑顔が笑顔になり切れていないというか、敬いが見てとれないというか」
 ここで枢木少佐の名前を出す必要は実際はない。しかしこうして話の流れを変えることで、後々何か不都合があって追及されたとしても、彼らは枢木スザクというイレブンの話をしていたのだと云い逃れることができる。案の定、数人がそれに合わせるように枢木少佐の話に加わった。少佐のブリタニアへの忠誠心はどうなっているんだ。いいやそもそもイレブンなんか信用できたものか。
「それがどうやら枢木少佐はよほど騎士侯殿に思うところがあるらしい。恨んでいるのやら嫌っているのやら、そのあたりは知らないが。イレブン風情が騎士侯殿と繋がりがあるとは考えられないから不思議ではあるんだが、あれは殿下への不敬と云うよりは騎士侯殿への不敬だな」
 上等兵が訳知り顔で笑みを浮かべると、何人かが笑いを堪えるようにして頷いた。ああ、騎士侯殿ね。まあそれはそれで解らないでもないが。
 新しく騎士侯に任ぜられたルルーシュ・ヴィ・ブリタニアという人物については、そもそも良い噂というものがない。属国となる前のエリア11に送られて以降何年も音沙汰がなかった第11皇子は、最近になってやっとブリタニア本国に戻ってきたのだが、しかしすぐに皇位継承権を放棄して第2皇子のもとで騎士となった。騎士というものは最低限度の文武両道を求められはしても戦に秀でた人物を登用するのが常であるから、武人ではない第11皇子の登用は稀なことである。それでどこからともなく新任の騎士侯殿は皇子殿下の囲い者なのではという噂が立った。その上実際に騎士侯殿は居室に籠りきり、皇子殿下がその部屋を深夜に訪れるとあっては噂どころではない。ゴシップほど速く流れる情報はなく、ここしばらくは軍部のどこへいってもこの話でもちきりだった。
 兵卒たちはそうしてしばらく憶測や確証のない流言を持ち出しては散々話し続けていたが、さほど長くはない休憩時間が終わりを告げると不平の声をあげながらもそれぞれの持ち場へと戻っていった。彼らにはこれから当分は休息の予定がない。
 最初にこの情報をもたらした上等兵は、やはり規定の集合場所へと駆け足で向かいながら、ふと先程見た光景を思い返していた。廊下で立ち話をする男たち。重い長靴。歪められる口許。笑い。きしこうどの。枢木少佐の穏やかならぬ表情は、その場に居た人々とは何か一線を画していた。
 少佐は騎士侯殿については何も云わないようだが、騎士殿に何か思い入れでもあるのかな。
 まさか。そんな訳がありません。からかうような笑顔に対して丁寧に云いきってはいたが、枢木少佐の口許は奇妙に歪んで見えた。
 枢木少佐の名前を出したのは、居るかも解らないルルーシュ騎士侯派の人間にこれらの話が伝わらないようにするための保険だ。隠れ蓑として使った人間を実際に気にかけているものは居ない。ただ、あの時の少佐の表情がどうにも引っかかっただけだ。苦しみを堪えているような、傷付いたような表情は、あの場にはどうしてもそぐわなかった。それだけだ。
 ……まあ、どうせイレブンだ。
 イレブンの考えていることなど理解できないし、できないものは仕方がない。ブリタニア人の自分には苦痛ととらえられた感情表現は、恐らくイレブンの間では違うのだろう。でなければあんな苦しげな表情を浮かべる必要などがイレブンにあるだろうか。あんなに辛そうな、それでいて感情を押し隠そうとする笑顔などは。
 上等兵は適当に納得をつけ、それからすぐに枢木少佐に対する興味を失って持ち場へと急いだ。時間ぎりぎりに辿り着き、息を切らせたまま上官の前で敬礼をして見せた時には、枢木少佐のことなどすっかり彼の意識からは消え去っていた。


(06.22.07)


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