Don't You Wonder


 価値がないと思ったんだ。それで自分を棄ててみたら、そうしたら、ほら。
「スザク。今日ははやいじゃないか」
 教室へ向かう廊下でルルーシュとはちあわせた。早朝から軍部に赴いた自分が学園内に居たのが意外だったようで、器用に片眉だけを吊り上げてみせる。
「うん。午前中いっぱいは潰れちゃったけど、まだ午後は授業が残っているよね」
「次は数学の小テストがあるからな、覚悟しておけよ」
「うええ……」
 優等生然とした表情を浮かべてルルーシュが笑うのに、困った顔で溜め息を吐いて見せれば、彼は少し目をそらしながら「テスト範囲を纏めたノートくらいなら、あるけど」と小さく呟いた。
「ルルーシュそれ見せて!」
「ふん。そう簡単に見せられるか」
「頼むよ、前回も再試で酷い目に遭ったんだ」
 両手を合わせて拝むように縋れば、ルルーシュは唇を尖らせて無言のまま僕に背中を向けた。そのままずかずかと教室に戻っていく背中を追っていくと、案の定ルルーシュは数学のノートを僕に投げ付けるように渡してくれた。早速開いて感嘆の声をあげる。
「わ、綺麗に纏めてあるね」
「このくらい当然だろう」
 素直に褒めると妙に居心地悪そうにするのはルルーシュの昔からの癖だ。彼の露悪的な習慣は子供の頃からのものだけれど、近頃は僕に対しては露悪的だったり素直だったりが極端になっている。
「でも僕のノートなんかぐちゃぐちゃだよ」
「授業中にあれだけ船を漕いでいればそうだろうな」
「ルルーシュだってかなり寝てる癖に」
「そんなことを云うんだったら返して貰おうか」
「あははごめんごめん」
 つまらないじゃれあいを好むのは僕よりもルルーシュの方だ。生まれ育った皇室を毛嫌いしているルルーシュは、貴族的な儀礼よりは子供らしい遣り取りを素直に楽しむ。澄ました表情の中にも楽しんでいる様子が垣間見えて、僕はそっと微笑む。
「あ、もうあと二十分もない。じゃあノート借りておくね」
「精々必死になって勉強するんだな」
「一言余計だよルルーシュ」
 苦笑して自分の席につく。僕にノートを貸してくれたということは、ルルーシュは既に勉強を済ませてあるのだろう。実際の能力は誰よりも高い彼は、しかし皇族であることを隠すために極力目立たないように振舞っている。あれほど賢いのに彼の成績がいつまでも中の上程度を維持しているのはそのためだ。ざわつく教室の中、僕はテストに備えてルルーシュの流れるような字が並ぶノートを広げた。
 授業が全て済んでしまってから、僕とルルーシュは連れ立ってクラブハウスへ向かった。お互いに時間の都合がついて生徒会の集まりがない日は、ほぼ必ずと云っていいほど僕はクラブハウスを訪ねる。目的は勿論ナナリーの様子を見に行くためだ。足が不自由な上に精神的な障害から盲目でもあるナナリーが全幅の信頼を寄せる相手というのは、実のところは非常に少ない。その数少ない人間の筆頭は兄のルルーシュとアッシュフォード家のミレイと、それに僕だ。七年前から僕達はずっとナナリーを支えてきた。
「実は今日は技術部の人から梨を幾つか貰ったんだ。お友達と食べてくださいって。ノートのお礼も兼ねて、みんなで食べよう」
「梨か。ナナリーが喜ぶな」
 そう云うルルーシュの顔はいとも簡単にほころんでいる。彼にとっても僕は数少ない信頼できる人間のひとりだ。その僕がいつでもナナリーを気に掛けているという、それだけで彼はやさしい表情で喜ぶ。
 扉を開けば、僕達の話し声を聞きつけたのかナナリーが車椅子をこちらに向けて待っていた。車椅子の横で咲世子さんが会釈をする。
「おかえりなさいませ」
「ただいま、ナナリー、咲世子さん」
「僕もお邪魔してます」
「おかえりなさい、お兄様、スザクさん」
 嬉しそうに微笑むナナリーの顔を見てルルーシュも自然と笑みを浮かべている。脱いだ制服の上着をかけながら「スザクが梨を持ってきたんだ。咲世子さん、切り分けてくれますか」と云うルルーシュは楽しげだ。自分のものに続いて僕の上着も並べてかけてくれる。僕と目が合うと少し照れたような顔になった。
「まあ、梨ですか。素敵ですね」
「結構良さそうなのを貰ったんだよ。きっと甘いと思う」
 いれたての紅茶とみずみずしい梨。やさしい香りに満たされて、部屋はあたたかく心地いい。ルルーシュとナナリーが何気ない会話をする様子をにこにこしながら眺めていると、その光景は穏やかな平和に包まれて僕の体から余計な緊張を抜きさってゆく。
 これが大切な時間というものなんだろうか。僕は微笑みを浮かべたまま彼らの様子を冷静に観察している。少なくともルルーシュにとっては大切なのだろう。ナナリーにとっても。特にルルーシュは誰よりも好きな人間に囲まれて幸せそうにさえ見える。
 ルルーシュが僕に向ける好意には、僕はかなり前から気付いている。友情と呼べばいいのか、あるいは恋情とも云えるかもしれない。特別な相手にしか向けない視線を、しかしルルーシュは僕に対しては惜しみなく見せた。僕が指摘したところで彼は認めようとはしないだろうけれど、ルルーシュにとって特別な人間は僕とナナリーだけだ。誰も僕達以上にルルーシュの中に踏み込むことはできないだろう。危険を冒してまで彼らを匿っているアッシュフォード家のミレイでさえ、あるいはルルーシュに恋をしているシャーリーでさえ、これほどまでには。
 だけど僕はどうだろう。僕にとってルルーシュは特別でも何でもない。ナナリーもそうだ。生徒会の人たちも、特派の人たちも、誰も。例外なんてない。
 ほんとうは僕はただ打算で動いている。人に好かれたい、敵をつくりたくない。好意を向けられることを好むのは、優遇されたいと望むのは、ただその方が便利だからだ。生きてゆくことはこんなにも面倒なのに、余計な障害をつくるような行動なんて馬鹿馬鹿しくて仕方がない。だから僕は自分を棄てた。欲を見せることをやめた。献身のために生きてゆく姿勢を見せた。そうしたら何もかもが簡単になった。みんなに好かれるやさしい人間。
 僕は誰のことも気にかけたことがない。大切なものは一つもない。信じていることだってない。ただ社会のルール、強者の法律にだけ従って、流されるまま正しいとされる方向にだけ惰性で動いている。だって信じるべきものなんてどこにもない。努力したところで何も変わらない。僕が世界を動かしている人間ではない以上、操られるままに動く以外に選択肢なんて存在しない。度を超えた願いなんて抱いたところで違いなんかある訳がない。
 こんな僕を、ほんとうに理解している人間は一人だって居ない。僕に想いを寄せているルルーシュですら。彼にすら、僕の心の奥底は見えてはいない。可哀相に。そう思ってみても感情は僕の心の表層で上滑りして消えてゆく。
 僕は結局は一人きりだ。僕には何もないし、何も必要としていない。ただ、死んでしまう準備だけならいつでもできている。それだけのことだ。


(06.24.07)


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