君と僕との2メートル 1


 特に誰にも話したことはないけれど、僕の朝は皆より少し早い。実際に授業が始まるのは八時半で、僕は同期の皆が起き出す二時間前には起床する。
 朝起きてまずすることは、子供の頃から一日も欠かしたことのない運動だ。走りこんだり竹刀を振るったりして自分を鍛えること、それを僕に教えてくれた先生は鍛練と呼ぶけれど、僕自身はその呼びかたを未だに少し恥ずかしいと思ってしまう。何年続けても僕の心持ちは先生のような謙虚なものにはなりきれないからだ。一時間強かけての体力づくりを終えたらシャワーを浴び、簡単な朝食をとる。身支度を整え終わった頃にルームメイトが起き出してくる。時刻は八時になる少し前、皆が起床するのはこのあたりだ。
 僕のルームメイトは夜にはやたら強い癖に朝は弱い。あまり夜更かしをするせいか時々は寝過ごしかけるけれど、育ちは悪くない方なのか少し大きめに物音を立ててやれば目を覚ます。着替えのついでに様子を窺えば、今も小さい欠伸がきこえてくる。
「おはよう」
「……ああ、おはよう」
 僕とルームメイトとの会話は専ら朝と夜の挨拶のみだ。それでも一限目は同じ必修の授業を履修しているので、僕は彼が支度を終えるのを待ってから一緒に部屋を出る。鍵は大抵僕がかける。
 教室のある建物までは寮からは十分程度だ。黙々と歩いて目指す教室に着けば続いて他の生徒たちも眠たげな顔で現れるので、講師が来るまで僕は親しい仲間と他愛のないお喋りをする。授業が始まる頃にはルームメイトは器用な姿勢で居眠りをしているので、僕はそれきり彼のことを忘れる。次に言葉を交わすのが就寝時どころか翌朝になることも少なくはない。僕の毎朝はこれらの繰り返しで成り立っている。今朝の授業の講師はまだ大学院生なのだと云う。緊張感のない授業を聞き流しながら僕は来週提出のレポートについてぼんやりと考えている。
 僕の通う大学はブリタニアの郊外、解りやすく云えば辺鄙な田舎に位置している。確かに名門であるはずの大学だが、だからこそか、街と呼べる地域は一番近いところでも車で一時間はかかるところにある。首都などは車でも半日以上の距離だ。それで殆どの生徒は大学の寮に入るし、経済的に余裕のある生徒なら近くに下宿をするのが一般的だ。
 一日の授業を終えて、僕は取り敢えず寮に戻る。一年目の授業は殆どが必修教科なので、留学生の僕にもさほど難しくは感じられなくて助かる。今夜の予定はもうしばらく後からなので、まずはここ数日分の洗濯をこなすことにする。最初のうちは失敗をしないかどうか戦々恐々としたものだったけれど、今ではすっかり手際も良くなったと思う。これで今日するべきことはおしまい、あとは気兼ねなく夜を楽しむだけだ。日本ではどうであれ、ここでの僕は学生らしく遊び回るつもりなのだ。
「スザク」
 地下にあるランドリーから戻るとルームメイトが伸びをしながら僕を見ていた。必修学科以外では僕とは少し違うスケジュールを選択している彼は、月曜は午後の授業を一つしか入れていない。先程まで画面に向かっていて疲れたのか、目を眇めつつ何度も瞬きを繰り返している。
「ああ、戻ってたんだね」
「特に出掛ける用もないしな。……お前は出掛けないのか?珍しいな」
「これから出掛けるんだ」
 約束は三十分後だ。火曜の授業は二限からなので、帰りが遅くなっても充分な睡眠時間は確保できる。こういった僕の生活態度に、彼は最初のうちは奇妙なものを見るような目を向けたりもしたものだった。
「帰りは深夜になると思う」
「ああ。酔っ払いは連れ込むなよ」
「大丈夫」
 普段通りにルームメイトに微笑んで見せながら、しかしそんなことより僕にとっては赤の他人と同じ部屋で生活していることの方が不思議でならなかった。常識としてありふれた環境ではあるけれど、家族でも使用人でも恋人でもない、同じ人種ですらない人間と一緒に暮らしている。お互いが毎晩ほんの二メートルしか離れていないところで眠っていて、しかし相手に対する関心なんて全くない。今まで過ごしたどんな環境よりも、こうした適度な無関心は僕にとって居心地がよかった。
「じゃあね」
 いってきます、は、云わない。僕は孤独を求めて友人たちのもとへ向かう。


(10.03.07)


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