ひかり |
ナナリーはルルーシュを愛している。ナナリーにとって世界とは兄の声であり、そっと触れる手のひらの温度であり、頬をくすぐる風の感触であり、優しく香る花の香りである。両足は二度と動くことはなく、双眸は光を映すことを拒む。そんな彼女にとって、ルルーシュは世界そのものにも等しかった。 ナナリーは独りで庭に居る。やわらかく吹き抜ける風に乗って、遠くから鳥の鳴き声が聞こえる。ナナリーが見たことのない鳥だ。そしておそらく永遠に見ることのない鳥でもある。 ナナリーは独りきりで居る。兄は今日もいない。行き先は告げられることはなかったが、それは当然といえば当然なのだ、兄には予定を一つ一つ妹に語り聞かせなければいけない義務などはない。たとえ昔は隣の部屋に行くのでさえナナリーに声をかけてくれていたとしても。エリア11と呼ばれるようになったこの国に来てから、もう七年が経つ。自分とそう変わらない大きさだった兄の手は、今ではすっかりナナリーの手を包み込んでしまえる。兄は大人になったのだ。いつかは兄も働き、結婚して、自分自身の人生を歩むだろう。その日はまだ当分は来ないとしても、カウントダウンは既に始まっている。 今日、ナナリーは兄を見送り、メイドの咲世子が用事のために外出するのを見送った。兄には咲世子が少なくとも半日は戻らないことを話していない。咲世子にも兄への報告を止めさせた。兄が自分を心配して、もともとの予定を変更しようとするかもしれないとおそれたからだ。 ナナリーはふと、先ほどまで聞こえていた鳥の声が既に聞こえなくなっていることに気づいた。独りきりの庭園は信じられないくらいに静かで、ただ時折吹き抜ける風だけがナナリーの髪を揺らす。 車椅子を少しだけ動かして、ナナリーは花が咲いている方を向く。今は何の花が咲いているのだったか。花は圧力に弱い。ものの形を覚える時、彼女はそれを強く握りこむ癖がある。そうでなければ形を思い描くことが難しいからだ。昔、とおいむかしに見たことのある形の概念を一生懸命思い出しながら、心の中に形を描き出す。けれど花は握れば潰れた。花びらを指先で辿れば花弁はほろほろと散った。だからナナリーの思考の中で、花とは薄くて小さくてなにか絡み合った形をした物体でしかない。そんな花の名前など覚えたところで色も形もろくに判別できないのだから、ナナリーは実際のところは周囲の人間が思うほど花に対して関心を持っているのではなかった。 ただ、花は香る。その香りだけは間違いようがなくて、それはナナリーの小さな世界の中に存在する確かなものの一つとして、彼女が暗闇の中で窒息してしまわないように彼女を守っている。彼女はそうしたたくさんのものに助けられてようやく生きている。 「お兄さま……」 独りきりの庭園にナナリーの声がこぼれる。彼女が唇を震わせて発した声は、彼女自身のなかで少し反響して溶けるように消えた。 ナナリーが今日、独りきりで取り残されることを兄に伝えなかったのは、兄が予定を変更しようとすることをおそれたのではない。変更せざるを得なくなるのをおそれたのでもない。妹が独りきりになることを知って、それでもなお自分自身やナナリー以外の誰かを優先しようとする兄を見ることを、ナナリーがおそれたのだ。 兄にとって自分が重要でないとはナナリーも思ってはいない。兄に誰かほかに大切な人ができたとして、だからといってそれが妹であるナナリーの価値を下げるとも、思ってはいない。けれど彼女はこわくてたまらないのだった。誰かのために兄が自分を選ばないのではないか、自分を忘れるのではないか。そう思ってしまうだけで全身が凍るような恐怖が荒れ狂う。 「お兄さま」 孤独はおそろしい。真っ暗な世界、いっそ生まれついてから何も見えなければよかったと思ってしまうのは何故だろう。光を見たことがある。光の中で笑いながら走り回ったことがある。全てが手の中にあった時間はあれほど短かったというのに、昔見た光景の影は永遠にナナリーを開放することはない。 今、ナナリーの世界はルルーシュを中心に回っている。兄だけがナナリーの暗闇も光も痛みもよろこびも共有し、真っ暗な世界の外に触れさせてくれる。それを失ってしまったら、自分はどうなってしまうのだろう。 「お兄さまがいなければ、夜も明けません……」 ナナリーは呻くように呟いた。周囲に誰もいないことを、自分がひとりきりであることを確信しながら、咲き乱れる花たちに向けて恨み言を囁いた。 ただ兄の幸せだけを願えない自分が嫌で嫌でたまらない。兄だけが自分の感情をこんなにもかき乱し、疑わせ、おそれを抱かせる。何年も何年も献身的に尽くして貰った。惜しみないほどの愛を与えられた。だが、だからこそそれがナナリーを不安にする。期限が訪れる優しさなんて欲しくないと、切り捨てたくなってしまう。お兄さまにはわかりません、何度そう心の中で叫んだのか、ナナリーは既にそれを数えることをやめている。 兄が憎い。兄はナナリーに対して愛以外の感情で接したことがなく、常に完璧な兄であろうとしてくれる。だがその兄がナナリーに抑え切れない嫉妬心や、本当の恐怖を教えた。そんな兄が、ナナリーには憎い。いっそ何も与えられなければよかったのに。いっそなにもなかったらよかったのに。 指先が、すこし冷たくなっている。あたたかく庭園を照らしていたひかりは力をなくし、周囲の気温が徐々に下がってきたことをナナリーは実感する。暗くなってしまうまでに戻らなくてはならない。だがナナリーは動けなかった。まだ動きたくはない。まだ独りきりでいたい。 ナナリーはゆっくりと顔を上げた。何も見えない先に広がるものは空であるはずだ。もう「青空」ではないかもしれないけれど、それなら「夕日」があるはず。ナナリーは少し首を傾け、微笑みを浮かべてから、手を目の前にかざした。これがナナリーにとっての「夕日を眺める」という行為だ。そしてナナリーは堪えていた涙を流した。時々は「夕日を眺めているとかなしい気分になる」をしていいはずだ。ナナリーは兄やその周りの人々からそう聞いたことがある。だからナナリーは夕日を見ながらようやく泣いた。 自分は身勝手だ。自分自身のことばかり考えて、どうしてただひとのしあわせを願うことができないのだろう。だけど、それでも。 ナナリーはルルーシュを愛している。ルルーシュとはナナリーのたった一人の兄である。何も見えない、限りなく続く暗闇の世界に射し込む光である。いつかその暗闇に打ち克つことができたなら、その時ナナリーは本当に兄を愛することが出来ると知っている。 (10.17.08) 戻る |